司会者:11期生田中仁史さんの講演ですが、田中さんは京都大学防災研究所教授で、今後
予測される大地震から建物の被害をいかに防ぐ、いかに減らすかの研究をされています。
それからニュージーランドで長く勤務されていました。工業高等専門学校からニュージー
ランドの大学、または国際地震工学センターなど様々なところで教鞭をとられています。

田中さん

先日、田中さんがノーベル賞を取られましたが、そのノーベル賞を取れなかった田中で
ございます。一生取れることはございません。なぜかと言いますと、建築学関係にはノー
ベル賞はありません。数学にもフィールズ賞しかないようにそういった意味では残りの人
生安心して強迫観念に捉われることなく大学生活を送れるのではないかと安心しています。
簡単に私の略歴を申し上げますと、現在52歳で西条市生まれ、それで愛光を卒業して、
京都大学の建築学科に入学しました。それから修士・博士課程と進み、当時金八先生が流
行っており、大学の助手になるよりかは高等専門学校の講師のほうが助手というより響き
がいいということもあってこちらを選びました。それから5年くらい経ちますと、突如愛
光時代に培われた海外留学願望が急に甦り、先程、鎌江さんから伴侶は大事だという話は
ありましたが、突然妻に「俺辞めて留学するわ」、そしたら妻は九州出身なのですが、「い
いよ」とあっさり認めてくれました。こちらのカンタベリー大学のほうも「私は妻も子供
もあるからある程度お金をくれないとダメです」というと、充分生活するだけのお金はい
ただきました。それから2年、京都大学に戻っていたのですが、カンタベリー大学のほう
から「今度は正式職員で戻ってこないか」ということで、また退職して行くかと思い、家
族もニュージーランドに移民を決意しました。もう日本には戻って来ないということで移
民局の手続きをし、ニュージーランドに行きました。そこで5年ほど講師・助教授をやり
永久在職権(tenure)も取ったのですが、退職するときに「永久に勤められるのに、なぜ
辞めて帰るのか?」と言われたのですが、食物が日本の方が美味しかったということで豊
橋のほうに戻って来ました。それから2年ほど前から京都大学防災研究所の教授ポストが
空席ということで、一度辞めたところをもう一度行くのは躊躇しましたが、もう一度戻る
という現在の生活に戻りました。
現在の私の仕事は大学で教鞭をとるということも一つですが、こういった超高層・免震
建物というのがありまして、それの耐震安全性評価、これは昔ですと建設大臣、現在では
国土交通大臣がやるわけですが、扇千景さんがこういった知識をもっているわけではない
ので、私どもが大臣認定業務をしているわけです。それからもう一つの仕事は地震被害調
査ということで、90年にフィリピン地震、93年、95年と日本に二度戻って来ました。こ
の時はニュージーランド人として日本の地震の被害調査を行いました。99年には日本に戻
っていましたが、トルコ・台湾地震、それから最近だと2001年のインド地震ということ
で、これはインドの写真ですが、こういった被害調査と原因究明というのも私の仕事です。
それから愛光時代を振り返ると、私は授業を聞くというより自分で本を読んでしまうと
いうタイプでした。なぜ学校へ行かないといけないのかということを常々疑問に思ってい
ました。一つの答えは、大江健三郎さんが言っているように「人との出会いがあるから」
ということかと思います。それで愛光時代に私が得たものは、トマス寮に居た時代に、い
ろんな所からの出身の方がいて、家庭環境も随分違いました。私の場合はサラリーマンの
息子ですが、そういった中で異なる人生観、価値観の受容、尊敬、場合によっては畏敬ま
でいったということもあります。そして、個性豊かな先生方との出会い。基本的に海外留
学願望というのは、高校先日2・3年時の英語の藤原保先生が海外に留学経験があったと
いうことがあり、私も一度は行きたいと、この時代にうえつけられた願望ではないかと思
います。これが一番大事なことかと思いますが、異文化との日常的な接触、神父さんとい
ろいろ接触しまして、現在の「ボーダレス」とか「グローバル」そういった言葉の流れる
時代へ、まあ潜在的に自然な適応力がこの時代に培われたのではないかと思っています。
11期生の間でも今回のシンポジウムの「世界的教養人」という言葉が「これはなんだっ
たのだろう」とメールのやり取りでなされましたが、「建学の精神」という本学のHPを開
いてみますと、「深い知性」と「どこへ出しても恥ずかしくないような高い徳性」というの
が定義でございました。この「徳性」といわれますと、私は凡人でありまして、例えば昨
日汽車で来る時に、車内販売の定員さんがお釣りを百円余分にくれたときには思わず喜ん
で、返すまでに躊躇しました。つまり徳性がないのです。この辺が母校の目指すところは
非常に高いところで、非常に私にとっては辛いところです。なぜそれを目指すのか?野球
選手、音楽家、偉大なノーベリスト(ノーベル賞を貰う人)魅力あります。人間は魅力あ
る人間になりたい。その一つの手段が世界的教養人ではないか?一つの手段です。これは
矢野公一君(同期生)の定義です。それから過去の教育目標、私が豊橋に勤務していた時
代に、時習館という名門高校があります。そこの目標を見てみると、「自ら考え、自ら実践
する。幅広い視野と高い見識、健全な心身と豊かな感性、逞しく生きる。」これは親御さん
なら子供に対して常に願うことではないでしょうか?それから「国際人としての進出」、こ
れぐらいだと非常に解りやすいのです。我々11期には秦孝三君という非常に哲学的な論客
がいますが、「この辺だと無難な目標だね」ということであり、これに愛光は「高貴な魂」
というのが加わっているのです。これが入るとまた私の場合は挫折感に襲われるわけです。
私は現在52歳ですが、なかなかそういう魂というところまではいけない。ただミッショ
ンスクールとして、やはりこういう非常に高い理想が描かれた素晴らしい学校だと思いま
す。最後になりますが、在校生の諸君に伝えたいことは、これから職業選択の前段階とし
て大学・学科を選ぶと思います。私は建築出身ですが、有名な建築家黒川紀章さん、女優
の若尾文子さんと結婚されました。私が俗物の証明は、なぜ建築家を選んだかというと、
建築家になると女優さんと結婚できるのだという願望をもったからでありますが、とにか
く彼の場合は、そういう邪念ではなく、中学・高校の時代から父親の姿を見て、自分の仕
事としては建築しかないと、こう選ばれたわけです。それから数学者の岡潔さんですが、
彼が文化勲章を貰ったときには「数学とは何ですか?」と聞かれた時に「数学とは生命の
燃焼である」と答えました、カッコいいですね。こういうふうに自分の内なるものの要求
から選ばれた職業は素晴らしいと思います。ですから医学に進もうと、工学に進もうと、
やはりしっかりと自分を見つめて「これが天職である」というふうに選んでもらいたいと
思います。とにかく人生は長き戦い、熱意の継続、これが必要かと思います。要するに、
例えばノーベル賞にしても昔は京大の専売特許でした。今や東大が追いついてきました。
それから最近は東北大学、いろんなところがいろんなチャンスをもつ時代になってきまし
た。ですから「どの大学に入るか」ではなく「何がやりたいか」ということを考えてくだ
さい。
(スライドでの説明が入る)ニュージーランドの大学と日本の大学の大きな違いは、建設
工学科の場合、大学に200人入ります。そして卒業者はだいたい60人です。入りやすく
出にくいというスタイルをとっています。彼らは非常によく勉強をします。その理由の一
つは大学の定期試験が国家試験であるということです。だから非常に彼らは真面目にやり
ます。先ほど学生の教官評価の問題がありましたが、最初に講義したときには5分遅れて
5分早く授業を終わっていました。そうすると学生代表が一ヵ月後に来まして、「あなたは
給料泥棒だ」と「毎回10分のロスをしている」と怒られ、日本と随分違うと。きちっと
時間通りに始めて終わるようになりました。それからマオリの人たち(原住民)はニュー
ジーランドに10%います。彼らは豊かな音楽性と非常に愛に満ちた人たちです。私が雨の
中を歩いていると突然ボロボロの車が止まり、ドアが開くのです。「兄弟を雨の中歩かせる
わけにはいかない」こんなことは日本でおこりますか?おこらないですよね?そういう優
しさ、これは宗教を超えて彼らが家族愛、同胞愛を大事にする人たちだということです。
だからこういうことを学ぶことも非常に大きかったと思います。こういうこともお話した
かったのですが、先程の今までの語るパネリストの方、秋山先生をはじめ、これは私、大
学の入試問題のことでいろいろ話をしようとしたのですが「紙一重」というキーワードも
ありました。それから遠藤周作さんの話もありましたね。時間になりましたのでここで話
を終了しますが、とにかく私自信、愛光で育てていただいたことに非常に感謝しています。
どうも50周年、おめでとうございます。