司会者:4期生二神能基さんです。二神塾の能基さんと言ったほうが通りのよい方も多い
と思いますが、現在はNPO特定非営利法人ニュースタート事務局長を勤められて、不登
校の生徒や引きこもりの若者たちのニュースタート、新しい出発を支援されております。

二神さん

3ヶ月前にシンポの実行委員から「27期の酒井さんと二神さんが卒業生の落ちこぼれの
代表ですから」というふうに依頼されました。僕は高校2年の時に当時の田中忠夫校長先
生から退学を命じられて中途退学をしていますので、別に落ちこぼれに対して何の異議も
なかったのですが、先ほど吉田一郎君の成績を見たときには、若干反論したほうがいいか
なと思わされました。あれほどの成績を実は私は見たことがなかった。落ちこぼれの一人
として話をさせていただきます。実は83歳の私の母親が来ているということで、非常にプ
レッシャーを感じています。
私が愛光学園に入学いたしましたのは、昭和31年、1956年、宮西町のまだ木造校舎の
時代です。当時1期生が高校に入ったというか、中1から高1まで各学年2クラスで、生
徒数が400名余りの非常に家族的な学校だったと思います。入学して一番印象深かったの
は、今はなくなったらしいのですが、中間体操でした。2時間目が終わると上半身裸にな
って走って体操してというのを毎日やったわけですが、実は新入生には中学2年生の伴奏
指導というのがつきまして、ちょっと背中を丸めたりしていると背中に手形がつくくらい
に厳しくバシッと殴られまして、非常に怖かったということを昨日のように覚えています。
五百木校長が書いておられたが、当時、愛光には教育共同体としての熱い空気が流れて
いたというふうに、非常に強くそれを感じました。敗戦から10年くらい経っていましたが、
なんとか子供を教育することによって貧乏から脱出したいという親の期待とか、個性豊か
な先生方の熱意みたいなもので、独特の熱気を放った教育共同体というものが出来上がっ
ていたというふうに、中学1年生ながら非常にそれを強く感じたことを覚えています。で
すから、入った早々全く意味もわからず「我らの信条」というのを12歳の少年たちがクラ
ス全員で読まされたわけです。意味は全くわからなかった。しかし違和感みたいなものは
なかったのです。その意味の解らなさみたいなものに、胸が震えるような深いものを感じ
ることができたという思い出があります。
私は中退だというお話をしたのですが、高校2年の時1960年で、60年安保という問題
がありました。当時その全学連、東京の大学生たちが岸政権打倒ということで激しいデモ
を展開していました。授業中にも、先生方が1期生の誰それがデモに行っているらしいと
か、そういう話を聞くと生々しく感じた。非常に家族的な学校だったので、つい最近まで
一緒に勉強していた1期生の方が、今東京でああいうデモに参加しているということが自
分とかなりつながったものとして感じました。当時授業を中止して、安保について解らな
いなりにクラス討議をしたというような思い出もあります。
中にかなりマセた連中がおり、愛光学園で一所懸命勉強していい大学に入るということ
は体制に奉仕することであると、そういうふうにアジる連中がいて、実は私なんかはスッ
ポリそこにはまってしまいました。当時なんとなく大学受験の勉強をするのがイヤになっ
ていたという気分とどこか重なり、高校2年の5月から白紙答案を出し始め、結局3月ま
で白紙答案を出し続けて、高校2年の終わりに、田中忠夫先生から「退学」という命令を
受け、愛光学園を中退しました。
その後10年余りは退学になったということではなく、愛光の受験教育は間違いなのだと、
自分は間違った教育を受けてしまったというような思いがなかなか消えない時代を過ごし
ました。当時新任の先生で愛光学園に来られた五百木先生は私の同期でありまして、2人
でよく二番町あたりの飲み屋で田中忠夫校長批判を肴に、よく酒を飲んだものです。ただ
そんな30代に私はなっていたと思うのですが、ある会合で田中忠夫先生と同席する機会が
ありました。田中先生の会合でのご発言に対して私が激しくたてつきました。田中先生は
非常に短気な方でしたから、こめかみにすぐに青筋が立ち、また立ったなと、私もまだ若
かったので激しくやりあったのです。愛光関係の会合ではなかったと思うのですが。結局
時間切れになって終わりましたが、他の人には迷惑な論争だったと思います。そして会合
が終わったときに、田中先生が私のところに来られて「君のような青年を退学にしたのは、
私の間違いでした。許してください。」と頭を下げられました。私自身は自分の退学は当然
であると思っていたし、田中先生の処分は正しかったと思っています。その時は戸惑って
何も返事できなかったのですが、田中先生はそれだけを言われ、さっさと帰られました。
その言葉をずっと20年くらい考え続けています。
35歳で私は松山で関係していた塾を離れ、世界を放浪しました。いろんなところで田中
先生の言葉を思い出し、いろんな国でいろんな体験をして世界的教養人を育てるというふ
うに宮西町であの時代に宣言された意味みたいなものを考えさせられました。今、愛光の
教育は何だったのかというところでは、愛光で学んで良かったのかどうなのかという結論
はまだ出ていません。たぶん出ないだろうと思います。自分が愛光という非常に色の濃い
学校で育った人間であるといろんなところで痛感しています。
今、私はNPOという新しい組織を作って世界88ヶ所で、若者たちのニュースタートの
拠点をつくるという活動で悪戦苦闘をしています。世界88ヶ所構想というのは、やはり
47年前の宮西町で学んだ「我らの信条」の中の世界的教養人という言葉に対するこだわり
があります。世界88ヶ所は言うまでもなく、私の故里の四国88ヶ所というのからきてい
ます。私のNPOの活動が、母校と故里を原点としていることは間違いないわけです。
そして世界88ヶ所にこだわる部分というのは故里伊予の「よもだ」という精神であると
いうふうに最近感じています。私はこの「よもだ」という言葉を、瀬戸内海に面した伊予
の恵まれた自然、その中の「明るく・おおらかな・いい加減さ」というふうな意味にとっ
ているのですが、関東愛光同窓会は、この「よもだ」を活動の基本方針にしています。
今、医学とかあるいはいろんな学問、あるいは社会で行き詰まり構造のような話が次々
とでましたが、間違いなく今大きな転換点に立って、現実主義と理念主義と簡単に言うけ
れども、理念がなかなか出てこない、これからどういうふうに進むべきか、非常に見えに
くい時代であることは間違いないと思うのです。こういう時代こそ現実から理想につない
でいくものとして「よもだ」の精神みたいなのが非常に重要なのではないかと感じていま
す。かつて田中先生が私に向かって、自分の処分は間違いだったとおっしゃった言葉も、
田中先生は大変謹厳実直な方でしたが、何か非常に教条主義的で生意気な未熟な二神の目
を覚まさせるために、田中先生が贈ってくれた田中先生なりのよもだの言葉ではなかった
かと感じてなりません。
今、母校にいつまでも少年たちの心を揺さぶるような色の濃い学校、熱い教育共同体で
あってほしいと願っています。私は59歳になりました。たぶん今日のパネリストの中では、
私だけが孫がいるのではないかと思いますが、孫のある愛光中退者の一人です。ですが、
いまだに意味も解らず、「我らの信条」の中の「愛と光の使徒たれ」という言葉を念仏のよ
うに唱えながら、世界88ヶ所構想に向かって歩き続けています。いろんな後輩諸君に対し
てアドバイスがあったのですが、私はとりあえず59歳にしてもまだ我らの信条にこだわり
続けられる幸せを感じているという報告をさせていただきました。
ありがとうございました。