<第三部>



司会者:ここからは7人の方によるパネルディスカッションを行います。愛光50周年
ということで4期生から27期生まで揃っていますが、愛光での教育論を再び非常に簡
単なところから質問していきます。愛光時代の教育はプラスであったかマイナスであ
ったかと、かなり大雑把な質問からスタートしたいと思います。一番歴史を刻んでい
る二神さん。



二神さん:簡単に言うと、20代は愛光を憎悪していたというか自分の内なる愛光的な
ものが憎たらしいというか、これは大袈裟に言っているが、20代女性にモテなかっ
た、愛光生はモテない、僕が悪いのではなく、愛光生がモテない。ゆえに愛光の教育
が悪いみたいな部分もかなりありました。30代になって結婚をしたりといろいろあ
り、愛光のことをあまり考えなかった。40代くらいになり、自分はいずれにしろ愛光
育ちだということを認めざるをえなくなった。50代になってNPOをしています
が、このうちのNPOは半分以上が愛光の人脈でもっていますので、具体的に言え
ば、高利的に愛光で学んで良かったなと今は思っています。



司会者:かなり180度人生経験の中で逆転してきたというふうに聞こえますが、まだ
愛光、二神さんの言う若い世代の憎悪論というふうに、一番若い酒井さんは思われて
いるわけですか?その域は脱したのですか?



酒井さん:僕の場合、愛光学園に行った間でテレビとか映画とかマンガとか自由をし
て勉強はできなかったが、中学・高校生活で女の子はいなく、彼女がいなくて悶々と
しているそのフラストレーションの捌け口が創作にもっていけたなと思うので、そう
いう意味では愛光は良かったなと思うのですが、それは新田でもよかったわけで、な
ぜ愛光だったのかなというのはありますが、なんだかんだいって良かったのではない
かと思います。深くは考えていませんが。憎悪もしないし、すごい、すごいと感謝も
していません。



司会者:スルリと抜けていったという感じがありますが、ちょうど二神さんの立場か
らいくとターニングポイントに田中さんですとか鎌江さんが属するかなという年齢ど
ころでいくと、真ん中あたりかなと思うのですが、何か見方が変わってきているなと
いうことを感じることはありますか?



田中さん:適切にお答えできるかどうかわかりませんが、大学の入試制度自体がどん
どん変わってきています。私自身が愛光でありがたかったのは、やはり周りが勉強す
る雰囲気にあるのでよそ見をしなくて済むという、だから世間では四当五落という4
時間寝れば入試に通るが5時間寝ると落ちるという、そういう経験がなくて比較的通
常な生活で過ごしたのですが、そのことが一時期コンプレックスになりました。とい
うのは大学で同期で入っても、一般高校から来ている連中が国体で優勝したとか、そ
ういうスポーツも一生懸命であり、恋愛も一生懸命であり、それからいわゆる一流大
学に入ってくる。そういう連中の逞しさに対して自分はどうも生簀の養殖の中で育っ
たのではないか?そういうコンプレックスが常にありました。ただ、大学入試自体が
少子化とともにこれから変わってくると思います。これからの愛光の進められる教育
方針がどういう形にされるのか?やはりキーワードには全人教育というのが1つ愛光
のHPには書かれています。やはり永久に続くものは全人教育であり、知識の教育に
ついては、時代の価値観、あるいはその方向性で変わってくるのではないかと思いま
す。私の娘はニュージーランドでずっと過ごしていますが、教育方針は随分違いま
す。ですが、ノーベル賞の率、数学のフィールズ賞の率は日本より高いのです。そう
いったことも考えると、これから今までの教育方針でいいかというと疑問が残る気が
します。



司会者:続いて鎌江さんにも伺いたいのですが。



鎌江さん:先ほども触れましたが、愛光学園で教えてもらったというか、触れさせて
もらったという一種のグローバルな感覚ですね、世界的教養人というのは。我らの信
条というのは、入学してくるまでにとにかく覚えろといわれ、当時の私は素直に意味
も解らず覚えた記憶があります。ハーバード大学の「Enter to grow in wisdom」と
いう言葉に世界という語はありませんが、それはボストンという街では、特に世界を
意識しなくても、グローバルな雰囲気が普通だからです。そんな国際都市ボストンで
自分の知識なり教養において人生を深めていくという概念に触れることができ、愛光
の中で自分の中で培ってもらったものを再発見することができたのです。これは愛光
学園のお陰だと思っています。それからもう一つは西洋のクリスチャンの学校だった
ということです。自分はクリスチャンになってはいませんが、何か異質なものに中学
という子供の頃に触れて、異文化に対する一種の複眼的な思考をする種みたいなもの
がそこで培われたと思います。その辺が愛光学園で良かった点だと思っています。



司会者:今の我らの信条という話がでましたが、現役学生が前に陣取って真剣に聞い
ていますが、暗記しましたか?(頷く)その伝統は残っているわけですね。そうした
ところで、世界的教養人、あるいは我らの信条が何度も出て、ここにもタイトルが出
ていますが、これが成れているのか、実践できているのかどうかっていうのは非常に
私は疑問です。小池さんは愛と光の人論を展開されそうな立場なのですが、いかがで
しょうか?



小池さん:なぜ私にこのテーマが最初にくるのか・・1番相応しくないということで
振られているのだろうと思いますが。意外と「愛と光の使徒」と言う言葉が身に沁み
込んでいるという部分は今回初めて気がつきました。先ほど私は35年間あまり愛光の
ことを考えなかったと話しましたが、今回この機会にいろいろ考え、昨日も8期生の
同期生と色々話をした二次会の席で「我らの信条」の話がでて「覚えている、覚えて
いる」と。どこまで覚えているのかという話になりました。全部ではありませんがみ
んなそれなりに覚えています。しかも、本当かどうかわかりませんが、田中校長が、
一晩で一気に書いたという話も伝わってきて、どの程度どのように自分に身について
いるのかなと振り返ってみると、別の言葉で、私は弁護士ですから弁護士流に言う
と、依頼者のためであり、人々のために何かしようというふうな発想です。これをあ
まり古臭い発想と思わないで、やっているようなところがあります。弁護士活動はお
金稼ぎだけでなく、弁護士会の委員会活動、消費者問題の委員会とか様々な被害者の
問題を考える委員会などがあるわけです。無報酬でボランティアでしています。世界
の刑務所の話もしましたが、どこかから金が出るのかというのは大間違いで全部自費
で行くのです。欧米諸国にも随分行きましたが、全部自費です。弁護士会からお金は
出ません。通訳料とか報告書のお金は出ます。けれども、渡航費、宿泊費などは自腹
です。それでもみんなが行きたがるのは面白いのです。そういう新しい発見をし、そ
れをいろんな人に伝えたいと。自分のものだけにするのは勿体無いと。そして、また
実際に現地の弁護士に会ったりするのが楽しいのです。なぜ楽しいのか?それは人の
役に立っている。だから楽しいのかなと思います。これが生徒手帳でいうと、「愛と
光の使徒」なんていうと大袈裟なのですが、愛であり、光の中に少しでも近づきたい
という発想がやはり身に沁みているのかなと思います。どこまで実践できているかと
いうお答えは差し控えさせていただきます。



司会者:一方ドクターという立場ということで精神科吉田さん、「愛と光の使徒」ド
クターの立場でどれくらいまで実践できていますか?



吉田さん:医者というのは、「必要悪な商売」なので困ったですね。勿論、我々医師
は、愛を常にもってなんとかしなきゃいけない、しかし、一方、患者さんのために医
師が何かをするというのは「当たり前だ」という世間、そういうものに晒されて、行
動をしなければいけない。だから、そういう窮屈さの中で、愛と光というのはある意
味で当たり前のことで、逆に意識しない、し、その余裕すら感じる事もできません。
その分、沁みついているわけではないのですが、やはり人に何かをするということの
基本原理として、特に医師を志す諸君には、この愛と光と知性、徳性を意識してほし
いと思います。自分にはまだ言葉はありません。私はまだ若干37歳ですので、後50年
くらい生きて100周年で何か語れればいいなと思っています。





司会者:横には脚本家、火曜サスペンス劇場とかを書かれている酒井さんがいます
が、愛光時代のことをどこかに、脚本の中に引っ張ってきたりとか、引っかかってい
たりと登場人物の設定、背景設定を含めてあったりするのですか?



酒井さん:デビュー作から3年くらいは全部友達の名前を犯人役にしました。今日も
来ていますが、n中矢君はたぶん3回くらい人を殺しています。でもたぶん友達とか学
校の先生をイメージして無意識に、愛光時代の中学・高校だけではなく、小学校時
代、その後のイヤな奴だとか逆にいい人を無意識にはつくってはいます。



司会者:何処かには愛光時代の世界的教養人論あるいは愛と光の使徒論というところ
はすりこまれているということですか?



酒井さん:それはたぶん無意識なのですが、テレビドラマというのは単純に火曜サス
ペンス劇場を2時間して、ある人がAさんがBさんを殺しました。そのAさんが犯人
であることをCさんという探偵が追っかけるのですが、それでトリックとアリバイを
崩して、はい終わりでは通らない世界です。それは視聴率が取れないので、そこは当
然なぜAさんが人を殺さなければいけなかったのか?そこには当然憎しみや憎悪があ
ったり、いろんなものがある。例えばBさんは殺される人間ですが、Bさんは果たし
て本当に殺されるべきくだらない人間だったのか?とか、そこにはやはりAさんの知
らない、自分は殺してしまったが、実はBさんは裏でいいことをしていたという、今
のテレビドラマでは全員が全員いい人でなければいけないのです。みんながみんな犯
人も含めて全員がいい人というのを組まなければならないのです。それを愛と光の使
徒だからというのとは違うと思います。逆に僕は悪人でもいい、悪人なりの論理、信
じていることがあればいい。例えば信じること、愛だ光であるとは違うと思うが、こ
うだと思い込むこととかということでは、フィードバックはされているのかなと今言
われて気がつきました。



司会者:オープニングで一言ずつ伺いましたが、結論として愛と光の使徒論でいく
と、あるいは世界的教養人ということでいくと、みなさん何らかのバックボーンはあ
るけれども成れてないのだなというところで落ち着いてしまうのでしょうか?成れて
いるよというような自信が堀先生にはあるような気がして、あえてふってなかったの
ですが、ご自身の中ではいかがですか?



堀さん:私は愛と光の使徒という言葉はあまり好きな言葉ではありません。要する
に、使徒というのはメッセンジャーのようなものなので、自分の価値観とかそのもと
になるものは人がつくってくれて、それを運ぶものであるという茶坊主みたいな感じ
がすごくします。だから非常にクリエーティビティのない言葉であるという気がしま
す。だからあまり好きではありません。ただ愛と光の使徒、世界的教養人というのは
非常に身に沁み付いたような言葉でもあって、それはぜひそうなりたいなといつも思
っているのであろうと思います。これはなりたくないという人も結構いるのだろうと
思うので、なりたいと思うということだけで充分特異な人であるのかなと思います。
それはずっと続けていきたいなということは間違いないです。それを考えることが、
むしろ愛と光の使徒であり、世界的教養人であるのかなと思っています。百歳・百二
十歳まで生きて、「愛と光の使徒に僕はなりました」と言う人が居れば、そんな人は
使徒じゃないと思います。

司会者:次は現実の話に話を戻していきます。愛光生というと当然、次は大学受験と
いうステップが控えています。この中の先生方ということでいきますと、堀さんは大
学で試験を担当されたり、田中さんもそういう立場にありますよね?そういう側から
見て高校生、特に愛光生に望みたいものとか、傾向が変わってきたという話があれ
ば、お願いします。学校に近い立場ということでお願いします。



田中さん:京都大学は4・5年前から一芸入学という制度で、建築学科では10名ほど入
れるようになっています。これが進学指導をされる先生方が一番悩まされる問題だと
思います。つまり従来の入試方法だとパターン認識がありますので、非常に指導をや
りやすい。また受験側も何をやれば、どのレベルに達してどの大学が選べるという非
常にクリアなパターン分けが可能だったと思います。ただこの一芸入学というのは、
やはりある一つの優れた素質をもっていて、ノーベル賞級に伸びていくような人がい
るのではないかという理由で導入しているわけです。そういった意味ではこれから進
路指導していく人が一芸入学に対してどういう対策をとったらいいのか?受験される
本人も自分の一芸がどこまで認められるのか?というのが非常に難しくなってくると
思います。それからこの方向については、私学のほうでは既に早くから採用されてい
ます。だからこの辺の問題が、入試の問題を作る側も従来のパターン認識だけのチェ
ックでは本来の質が見えないという反省があります。ただ京都大学の場合は過去5年
間の追跡調査をしていますが、今のところ一芸入学をした人と、一般入試を受けた人
のその後の差異が明確には今のところ出ていません。それは、一つには建築学が工学
の中ではちょっと特殊な世界、アート(芸術)に近い部分もあるので、その辺が曖昧
にしているかと思いますが、この件については堀先生とは大部違う感触ではないかと
思います。



堀さん:とても難しい質問だと思うのですが、少なくとも大学の入試が色々な人を受
け入れるようになってきているのは間違いないです。例えば私の妻は大学院にもう一
度入りましたが、それは社会人という形で主婦もしながらやっている。そういう人が
生き生きとやっていけるような希望を受け入れていくということがすごく大事なこと
になるのは間違いないです。外国人も含め、いろいろな人をとにかく受け入れてい
く。ただ入学試験の内容に関しては、一芸に秀でた人をとるという試みは、なかなか
成功してないように思われます。

司会者:それはどの段までいったときに、成功している、していないと言えるのです
か?先ほどの田中先生の話ではここ5年間では成功しているというお話だったのです
が・・



田中さん:はっきりとしたデータとして差異が認められないということで、成功とい
う結論はまだ出ていません。



堀さん:一芸に秀でた人を取った気持ちでいるのだが、実は我々が望んでいるのはや
はり基礎学力がある人たちということに結局なっているのかなという気がします。そ
れは大学のほうも変わるべきであろうし、受験生もそういうふうな意識をもってもい
いと思います。私が多少違うと思う面は、一発当ててやろうというようなギャンブル
で入試を受けるのは大変よろしくないと思います。大学のほうが少しずつ変わってき
ているというのは、うちの大学に来た時に四年間でどういう教育が受けられて、将来
はどういうふうになっていくのかという、いわゆるトランスペアレンシーをすごく出
して、特徴を出したことを示そうとしているということは間違いないのです。そうす
ると受験生、高校生のほうからみると、どこに行くとどういうことが出来るのかとい
うような明確な意識をもって、だからその大学を選ぶというようなことがこれから起
こっていくのであろうと思います。それはそれでいいのではないかと思っています。

司会者:今お話があったように1つ最近の流れというか、大学側からの発信がインタ
ーネット等を通して多く出てきていると思います。これまで先輩を含めて、行こうと
思った大学側の情報は赤本くらいしかなかったものが、大きく情報公開されてきてい
ると。そういったところは何か裏に意図があってなのですか?より来てほしい学生を
集めたい、質が加わった人たちを集めたいというな意識があるのですか?



鎌江さん:医学・医療の分野に関しては、医学部の教える立場の側から言わせてもら
えば、とにかく良い学生を取りたいというのが希望です。良い学生という意味をめぐ
っては、いろいろ議論が分かれるところです。昔は成績の良い学生というのが大事だ
ったのですが、やはり最近は多様な認識が広がり、例えば訴訟を起こさないような節
度ある人格を持つ学生が良いと考えられたり、逆にあきらかに現場の医者には向かな
いが、基礎研究では非常に優秀な能力を発揮できる学生もいるわけです。なぜある学
生が医学部にきているのかといえば、もちろん本人の意思でしょうが、果たして適性
はとなればこれはなかなか難しい問題もあります。こちらとしては、入試の段階で、
できるだけ適性のある人を取りたいわけです。しかし、適性とは何かとなれば、これ
も難しい問題です。医学部では、研究、教育、職業性というものが問われますが、職
人としての医師の鍛錬の部分は以外にも今まで重きが置かれてこなかったのです。
今、文部科学省の指導の流れはどんどん変わってきています。日本の医学部卒業生は
米国に比べてレベルが低く、卒業しても直ぐに患者が診れないのは、医学部の教育が
悪いからだという認識が広がってきています。どんどん早く臨床を教えろということ
になってきています。最近では、四年生の最後にコンピューターベーストテストと呼
ばれる○×式のコンピューターによる臨床の準備のための試験が行われるようになり
ました。これは文部科学省が始めました。厚生労働省による国家試験の前に文部科学
省によるプレ国家試験みたいな試験が負荷されたのです。この種のテストは、○×式
であるだけにある意味では世界的教養人の理念に反します。「教養重視の教育は、時
代遅れ。」という意見に押されて、医学部の教養教育はどんどん減らされているので
す。昔は教養教育というのが大学に入ると、普通、二年間はあったのですが、これは
専門教育が残り四年ということを意味しました。今では、医学部の学生は教養教育が
通常一年くらいです。ですから、人格面でも教養面でもまだまだ幅の狭い学生が、と
にかく、早くから注射のやり方を覚えなさいといったほぼ五年間を過ごすことになっ
てきているわけです。これは米国の医師養成方式から見ると、危ない方向とも思えま
す。例えば米国のメディカルスクールでは何学部を卒業していても、医学部がプロフ
ェッショナルスクールとしての大学院として位置づけられているので、既に入学者は
ある意味で幅広い素養を身につけている可能性があるわけです。大学院において職業
人としての医師を作っていく米国に比べると、現在の日本の方式では、何か薄っぺら
な臨床重視教育が高校生とそれほど変わらない未熟な学生に押しつけられていく結果
とならないかという心配があります。そうならないためにも、大学側はなるべく良い
人材を取りたいということで、推薦入試とか、神戸大学でもV年程前から始めました
が、学士入学とかを導入し始めたわけです。また、大学卒や大学院卒業生を医学部の
三年生に編入させる制度も始まっています。優れた人材確保のために医学部がいろい
ろ、努力し始めたというのが現状です。



司会者:同じような話でいくと、法律世界もロースクールということが今盛んに言わ
れていますよね。



小池さん:ロースクールをなぜしようとしているのかというと、1発の司法試験で受
かって果たしてどこまで弁護士としてできるのかという疑問がずっと提起されている
わけです。とりわけアメリカはそうですが、法学部がないのです。弁護士になる人は
いろんな分野の人がロースクールに入ってきます。つまり医者なり理科系の人を含め
て入ってくる。そして法律知識なり、いろんなケーストレーニングをして弁護士にな
るのです。だから弁護士になったときにいろんな基礎の様々な知識がみんな違うわけ
です。バラエティーにとんだ弁護士像がもう出来上がるわけです。入口のところから
違っているわけです。そしてそういう方々が、社会の様々な分野で活躍します。やは
りそれが必要なのではないか?法律しか知らないということでは、こらからの21世紀
はダメなのではないか?やはり基礎的な考え方や社会的な物の見方、そういったもの
の訓練と同時に様々な分野から弁護士というものを吸収して社会に人材を出していこ
うという発想で、ロースクールを2004年から実現することになっています。入口は入
りやすく、そして出口は医者の国家試験のような7割くらいが司法試験に通るよう
な、そういうシステムをつくろうということで現在いろいろ検討しています。



司会者:みなさん、医学の分野、法学の分野ですが、話を聞いていると、単に高校を
出て大学を出て、ではすまない世界になってきているというふうなことだと思いま
す。その分、ドロップアウトする確率・きっかけが増えてくるような形になると思い
ます。これは具体的な数字は出ていませんが、愛光生は留年の割合が高いとか、どこ
かで本来勉強しようと思っていたところからスピンアウトする割合も高いというふう
に言われていますが、そのあたりを実感することはありますか?



吉田さん:愛光固有の問題というのは、絞らないといけないと思うのですが、これは
社会性の低さだとかいろいろな点もあるかと思いますが、ある種の均質な集団に近い
のではないかと私は危機感として思います。



司会者:愛光生といわれる像がということですか?



吉田さん:医学部に来ている人間に関しても愛光生はある意味非常に純粋というか純
潔です。私は愛媛にいないので、愛光を出た後は愛光を意識する機会の無い、県外生
である立場から客観化して見ていると、ある意味で、「浮世離れ」している要素があ
るようにも思う。成長期に世間からやや距離を置いた環境で、特に、最初から最後ま
で寮などに入れられ、世俗から離れる事が特殊な環境かと思う。また、愛光に入れる
親御さんも経済的には恵まれた人が多く、その結果、育ちのいい坊ちゃん、そして、
近頃は、お譲ちゃんが加わったようですが。そう言う意味では、世間的からすれば純
粋培養の側面がより高まったような問題があるのかなと思います。そして、集団を考
える時に、成員に「幅がない」事はある意味では、「脆さ」があるかなと私は感じて
います。



司会者:結構過激な意見になってきて、このあと盛り上がることを期待しているので
すが、均質であって、幅がなくて、脆さがあると。これについて、同感だと言う補
足、あるいは違うのではないかという意見があればいただきたいのですが。



田中さん:この発言で在校生が勉強しないようになっては困るのですが、我々の学年
は250人いたかと思いますが、1番がいれば当然250番もいるわけです。私は現在52歳
ですが、同級生の1番から250番まで見てみると、後での成長は必ずしも愛光での成績
とは比例してないと思います。例えば私の親友はある商売をしていますが、その彼は
本人が言うには、勉強からは逃避として、歴史本とか百科事典を読みあさっている。
そういう時代をずっと過ごしたわけです。そうすると後の社会人としての伸びが、逞
しさというのが、やはり私にないものを持っています。成績の上では私のほうが上で
したが・・という印象があります。ですからやはり愛光に入られたという方々は、基
本的な資質としては1回入試を通られて、脳の成長はだいたい10歳で止まると医学的
には言われていると思いますが、その時点であるものはもう持っているのではないか
という気がします。その後興味の対象がどこへいくか、あるいは勉強に集中できない
何かを持ったと。ところが凝り性である間は、例えば本を読みあさる、そういった
方、あることに一生懸命になる性格の方は、その後の成長が大きい方が結構多いとい
うのが、52歳の11期の同級生を見ていての印象です。



司会者:という話でいくと、どこで人間をゴムに例えると伸びきるのかというような
話になってくると思いますが、吉田さんは先ほど、分母と分子=(イコール)一にな
るという論を展開されていたが、どこかで変わったわけですよね?



吉田さん:いや、変わっていません。ただ、人生、楽しかっただけですから。今も
「楽しさ」は連続しています。



司会者:ただドクターになるということで、どこかで考え方も変わっているのでは?



吉田さん:私は愛光を出て、愛光を喪いました。気持ちを入れ替えました。だから、
愛光では勉強をしませんでしたが、医学部でもしましたし、そして大学院でもしまし
た。現在も、もっと、もっと、愛光ではしなかった分、その100倍・1000倍くらいし
ています。だから、勉強をし向上する努力をするのは、それは人間として当たり前の
ことだと思っています。



堀さん:吉田さんが言われたスペクトルの狭さというのは、私は多少違う感覚を持っ
ています。実にいろいろな人がいるなというのが実感で、でもそれはなにも愛光生と
いうので括らなくてかまわないので、この問題設定自体がそんなに意味がないような
気がします。それでスペクトルの狭さで思い出したので、マイクを取ったのですが、
非常に愛光生に共通するのは、悪い意味での変な人があまりいないということです。
例えばこうして話をしていても酒を飲んでも、ときどきブチ殺したろかなという感じ
になるようなこともあるけれども、愛光生はそんなことはなく、人を陥れてやろうと
か、いわゆる邪悪な人間というのは極めて少ないのではないかと私は思います。それ
は他の集団、いろんなところでそういう経験がありますし、私の妻は「あなたの友達
の愛光の人たちは、実に精神の清らかな人が多いと思う」というようなことを、掛け
値なしに言っているように思われますから、そういう意味でのスペクトルの狭さとい
うのは、むしろ喜ぶべきかもしれません。

司会者:ただそれが純粋培養のようにも感じるかもしれない?



吉田さん:感じるかもしれないけども、それは人それぞれ40歳、50歳になってくると
いろんなところを経験してくるわけなので、それでも持ち続けている、何て言ったら
いいのか・・・神父様のような心というのをいくらかもらっているのではないかとい
う気がいたします。



司会者:二神さんはNPOをスタートさせて、そこに今結局戻ってきているわけです
よね?



二神さん:やはり均整というのは愛光に限らず、今やはり日本は非常に均一になって
しまった。うちには愛光の子も何人か来ています。いわゆる今は結構一流大学を卒業
して社会に上手く出て行けないとか、大学院の途中で引きこもってしまったという子
が多くて、別に愛光に限らず、どこも同じようになってきたなという印象のほうがど
ちらかといえば強いです。私が愛光学園に期待するものは、今聞きながら考えたので
すが、やはり彼ら24・25歳になっていますが、どうして動けなくなったのかという
と、さっきロウスクールとかいろんな話がありましたが、非常に教育がテクニカルに
なり、いろんなことをテクニカルにはできた。だからそこそこいい大学にも入れた。
しかし、ある時気が付くと自分の心の中というか自分の中に何もないと、自分の中が
空っぽだと、それに気付いて動けなくなったというような子が多いのです。そういう
ところが結構大事なのではないかと思います。全人教育はとても難しいのですが、私
は少なくとも自分は愛光学園で「世界的教養人」という言葉と「愛と光の使徒」とい
う言葉を覚えたことは、かなり大きかったというふうに思っています。



司会者:今、二神さんがまとめられるような形で次の論にいきやすくしてくださって
感謝しています。テーマとして「愛光生は嫌われる」というテーマも考えたのです。
という反応があるように、よくそういう話を聞かれるということもありました。そこ
で同窓生として嫌われてもいいのか?嫌われるのはよくないのか?嫌われてほしくな
いと思うのか?非常に漠然とした問題なのですが、嫌われる論ということが出ること
自体に対して何か考えはありますか?



田中さん:私自身は、人間的に嫌われたくないというのはあります。みなさん、好か
れたいという根本はありますよね?ですから鈍感かもしれませんが、嫌われたと思っ
たことはないです。ただ周りでウワサを聞くと、やはり若いときは、生意気だからと
か、あるいはやはり愛光に入る人はわりと強固というか頑固というか、私なんかは代
表的かもしれませんが、ある意志をもって愛光を受験し、入学する人たちだから基本
的にはわりと意志が強かったり頑固であったりということがあると思います。そうい
う意味では、自分が思うほど人に優しくない面があるかもしれません。自分の思うと
おり進むということは、場合によっては人を傷つける場合があるわけですから。ただ
基本的に、もし嫌われるとしたらやはり他の人たちと少し違う、要するに私は伊予西
条ですが、西条から愛光という松山に移るわけです。そうするとアイツは仲間を、故
郷を捨てて出て行ったという、そういう故郷の連中は、気位が高いというか外目には
ちょっとえらそぶっているように見える。そういう意味ではこちらが思っている以上
に、周りがそういう目で見てしまうという結果となっていることは多少あるかという
のが、私の印象であります。



司会者:それがイコール、嫌われ論かなというところにつながってきてしまうという
ことですね。同じように堀さんは丹原から松山に来て学んだわけですが、そうことを
地元で感じたことはありますか?



堀さん:僕は「愛光生は嫌われるか?」というテーマが出ていたのを見て、これはマ
スターベーションみたいだなと思った。これは「日本人は嫌われるか?」と同じよう
なもので、問題として意味がないような気がします。だから止めましょう。

司会者:この論の締めですが、我々メールでいろいろとやりとりをしてきまして「嫌
われるなら徹底的に嫌われろ」論を展開したのが、吉田さんですよね。どこまでも突
き進めと。



吉田さん:さっき「恋愛せよ」と言って、要するに人との「接触」ということで嫌わ
れる事は不快な感情ですね。これと、人から嫌われたくない感情は人間の本来持って
いるものです。ですが、青少年期では人はまだ、発達途上で人格形成が十分ではあり
ません。このため、必要以上に嫌われる事をネガティブに捉えがちであります。です
が、私は申し上げたいのは、嫌われても憎めないで愛される人柄というのもありま
す。嫌われ上手とでも言いましょうか・・私は先日依頼のメールでの議論ではっきり
言ったのは、「愛光生は何故嫌われるか、これを殊更、50周年の記念行事で取り上
げる事は母校の歴史の50年間の時間を無駄にした事を示すような事であるから、議
論に値しないから止めろ」と言ったのです。それをきっぱり言うことで、26期のこの
吉田一郎をとことん嫌ってくださいと申し上げたのです。だから、そういうのが私の
スタンスだけど、嫌われてもどこか愛される嫌われ方、嫌われ上手をせめて訴えたか
ったですね。そういうものもあるかも知れないよと。それを諸君が考えていただけた
らなというのが私からの願いです。不快な感情と決め付けないで。



司会者:そういう裏があっての「嫌われるなら徹底的に嫌われろ」という論でありま
すよね。よく巷で言われる「愛光生は嫌われる」という話をみなさんはどういうふう
に考えをもっているのかというのをここで一つ伺いたいなという私からの希望だった
のです。また、不毛に終わりました。ここで、不毛に終われない論が一つあります。
今年50周年ということで共学化になりました。これについては男子校という道を通す
べきだという論もかなり去年、共学の発表と同時に学校に対して寄せられたというふ
うにも聞いています。メールあるいは掲示板でもありました。母校の共学化について
意見をいただきたいと思います。そこに至った経緯というのは学校側からおっしゃっ
ていただかないとよくわからないとは思うのですが。校長もしくは教頭先生はいらっ
しゃいますか?五百木校長から一言「共学化の目的」というのをお願いできればと思
います。



五百木校長先生:これはもちろん共学化の背景は昨年から話をしていますので詳しい
話は省きますが、要は先ほどから愛光学園というものに関して論議されている中の本
校の教育の一つである人材育成、この観点はやはり学校の教育目的から外すことはで
きません。いろんな背景理由はあるのですが、一つ大きなものは、これからの我々が
直面して行く社会、いろんな切り口があると思いますが、高度の知識社会であると
か、あるいはその一方で少子高齢化社会が進むというような現実の中でどうやって知
的リーダーとか知的人材というものを確保していくのかというようなことを考えた時
に、先ほどから、どの法学・医学・建築の世界もそれぞれ行き詰まっていると。やは
り既成の知識が陳腐化して非常に斬新な独創的・創造的あるいは卓越した知識を求め
られているという時代です。そういった新しい知識に耐えうるような人材ということ
を考える時に、もう男女の差別とか区別とかということは関係ないのではないかと。
要するに女がいい、男がいい、そういうこと自体に意味がないのではないかと。やは
り能力のある女性が、良妻賢母の枠内だけに留まるのではなくて、やはり自分の持っ
ている能力を新しい知識社会の中でフルに活用できるような場を提供していくという
ことは、これからの学校教育にとっても非常に重要なことではないかと思います。と
いうようなことが、一つの理由です。



司会者:それぞれの世界の中で、まさにそういう理想像に近い方というのを思いつく
方はいらっしゃいますか?女性の方の中で、例えば小池さん、ずっと世界で見聞きし
てきた中で愛光の、今年女子1期生ということになりますが、こんなふうな人になっ
てほしいなというような像の方はいらっしゃいますか?



小池さん:何人もいらっしゃいますが、国連(ジュネーブ)に何度か行ってきまし
て、当時中坊会長の随行で行ったことがあるのですが、その時に緒方貞子さんという
方にお会いしました。国連人権センターで、その関連のレクチャーを受けたのです。
その時に彼女が登場してきて、30分の約束で話を聞いたのです。何を喋るのかなと思
っていたら、世界のありとあらゆるところの国の貧困の問題、そこに彼女が飛び回っ
ているという話をされて、30分の約束が1時間ほど話されて、もう圧倒されて、そこ
に参加した弁護士は「スゴイ人だな」というふうに思いました。彼女の印象は、世界
的教養人の典型みたいな女性だなと思いました。もう一人、女性ではないですが、国
連人権センターで、我が愛光の先輩に会いまして、多分私より2期上で6期生だったと
思うのですが、白石理(おさむ)さんという方がいます。この方は東大を出て、ずっ
と長い間この国連人権センターの事務局をやって、今は実務のトップだと思います。
そういう方もまさに世界的教養人として大活躍されているなと思います。

話を戻して、やはり女性が活躍をするということはある意味では当たり前で、世界の
裁判所で、3人の合議体がいるとその中に必ず女性の裁判官がいます。弁護士にも随
分多いです。日本の弁護士会でも随分増え、2割になっています。手元に「21世紀に
おける矯正運営…の在り方について」という提言があります。矯正保護審議会―「矯
正」というのは刑務所なんかの問題をやっているところですーそこの答申が2000年に
出されているのですが、これを見ると「異性の職員が就労している場面を見せること
などを通して、施設内が完全に男性社会または女性社会にならないよう留意するこ
と」という提言があるのです。これはどういうことかというと、女性の刑務所にも男
性の職員を大いに入れようと。同時に男性の刑務所にも女性スタッフを大いに入れま
しょうと。これができるだけ社会に近づけて、更生させる、社会復帰させる、大きな
役割を果たすのだと。実際に世界の刑務所でも、もう若い女性が生き生きと男達の間
を分け入って教育したり、手作業を教えたり、堂々としています。もうそういう世の
中になっています。弁護士会も、私は第二東京弁護士会ですが、副会長が5人いるの
ですが、そのうち1人は必ず女性にしようではないかという「ポジティブアクショ
ン」というのですが、そういうことを検討しているところです。



司会者:ずっとお話を聞いている間、吉田さんは頭を抱えるポーズをずっと続けてい
ますが・・・



吉田さん:私は、はっきり言うと、校長先生をはじめ、先生方が苦労して育てた人
材、我々を含めてですが、人材育成がデフレ化しているわけです。「人材のデフレ」
です。その中で知的ディーラのあり方を更に輝きを持たせていかなければならない。
そして先生がおっしゃるのは、人材育成ということで、性差ということを外してお答
えになられているのです。この点、私は個人の立場では、男性は男らしく、女性は女
性らしくと思っております。もちろん医療の世界でも、女医さん、男性の医者がい
て、各々持ち味があるのです。だから女子の教育理念を田中先生が50年前に書かれた
ように、やはり同等に女子は女子なりの高邁な教育理念を掲げて欲しいというのが、
私からの願いです。同時に女子生徒は、紅一点を求める立場や、「女性枠」というこ
とで、実力が無くても数合わせの結果、社会に入り込めるような世の中になろうとし
ている危機を実感します。「男女共同参画社会」だとか言う官製用語は、役人・官僚
のバカが考えたのだと思いますが、そういうバカな枠に実力が無くて、それでも、乗
っかる女性は恥です。そう、じゃなくて、そういうところで入っていても女に逃げな
い、つまり、女である性差を利権として誇示せず、むしろ、女性は女性としての力強
さ、細やかさ、言ってみれば女性の利点をきちんと社会に発揮できる人が必要だと思
っています。私も立派な世界的教養人である女性の例として、緒方さんはその例だと
思うので、賛成します。昨今耳にした話ですが、母校で、とある女生徒は体重測定の
際に、男性の先生が体重を書き込むのはイヤだわと、で、体重測定を拒むとか・・こ
ういう場面でただ女というところで権利を主張する。これは性差別の視点では「逆差
別」です。女子の親御さんは女子生徒の家庭での女子の教育に責任をもって欲しいの
です。学園側は女子教育のノウハウが無いのです。そういう学園の現実を踏まえ、特
に女子生徒の親御さんは、学園の教育環境を女子生徒が女子である権利だけを主張す
る場にしないために、家庭教育でしっかりと責任を持って欲しいというのが私の希望
です。



司会者:少し話の論点がずれてきている気がしますが、女子なりの理念をもってほし
いという注文・提案ということで、校長先生お願いします。今、50年の歴史の中で一
つの転換があった、今度は逆に50年の歴史があったからこそ生まれた話をいくつかみ
なさんお持ちだと思うのですが、そうした例を何か愛光50年の歴史・伝統の中でいい
話があれば紹介していただければと思うのですが。堀先生は教官として長いというこ
とで、お持ちだと思うのですが。



堀さん:これはいい話です。私の研究室に三十六期生のS君というのがいます。彼は
私と二十歳違うのですが、お父さんが松山郵政局にお勤めになっているということを
聞きました。彼は大阪大学から大学院へ移ってきたわけですが、聞いてみると「愛光
の後輩です」という。私の父は郵政局に勤めていて、私が中二の時に札の辻で車には
ねられて亡くなったのですが「そういう人がいたのじゃないかということをお父さん
に聞いてごらん」ということを言いました。そうしたら、うちの親父は要するにいい
兄貴分だったということで知っているどころではないということでありました。

 その時、中学生くらいのお坊ちゃんが残されて、お嬢ちゃんもいたと。これは僕の
妹なのですが、お母さんが一人でどうするのだろうなと非常に心配をしたのだが、何
をしてあげることもできなかったので、そのままになってしまったという話だったと
いうことを、そのS君が言ってきました。おふくろのほうは大変喜びまして、会いに
行ったりして、そちらの方もまさかあの時チラッとみた愛光の中学生だった私が自分
の息子の指導教官になるということは思いもよらなかったということでした。

 私も母親のためにも昔を思い出すことができたりしてよかったと思います。その学
生は大変穏やかな人で、愛光生らしいといえるのですが、高齢者や障害者のためにな
ることをしたいというようなことを望んでやってきまして、自分でそのテーマを立ち
上げて、福祉制御工学という名前を付けて、車椅子をやったり、義足のことをやった
りしています。それでちょうど吉田さんがそういう関係だということで、ご紹介した
らメールのやり取りで病院を見せてくださいという。そういう話はいろいろあるかと
思いますが、ある意味でスペクトルの広い人がいるというのが愛光だということで、
うまくつながっていきそうな気がしています。

司会者:人の紹介から先ほど秋山先生のお話にありました「自分でやりたいことを見
つけよう」「志を立てよう」「他から与えられたものだけでなく創っていこう」とそ
ういうこともきっちり同窓生OB諸君は実践できているというふうに今の話から伺え
るのですが、まさにそう考えていい事例でもありますよね?私が個人的に聞きたい質
問なのですが、今20年差のOBという話がありましたが、小池先生というふうに先生
と呼んだのは弁護士という立場なのですが、裁判になると相手の弁護士さんもいるわ
けですね。先輩、後輩の場合とかで、ヒエラルヒーというか、出てくることってある
のですか?愛光弁護士同士の対決というのは過去にあったのですか?



小池さん:過去にはないですね。ただ弁護士の世界もいろいろ先輩・後輩ありますか
ら、愛光関連でなくても、先輩・後輩でぶつかることはあります。その時は事件にも
よりますが、必死の場合が結構あります。やはり事件をすることによって、初めて相
手の弁護士としての力量がわかるのです。常日頃ただ雑談しているだけではわからな
いのです。ですからバカにされないように一生懸命やらなければいけないという、そ
ういう思いがお互いにあり、かなり厳しい戦いになることがあります。それと、和解
―話し合いをするときに比較的しやすい、今と逆の面なのですが、そういう面はあり
ます。



司会者:今の「弁護士で愛光OB同士の対決はない」と言われたのですが、弁護士の
世界での愛光OBというのは少ないのですか?



小池さん:少ないですね。私の同期でもう一人弁護士になっていて、あと一人検事に
なっているのがいますから、法曹界で3人ぐらい。多分期ごとに弁護士になっている
のは一人か二人ぐらいではないでしょうか?裁判官になっている人っていうのは聞か
ないのですが、いますか?一人いますか?10期にいますか。



司会者:絶対数としては医師になられる方よりかは少ないということですね。



小池さん:そうですね。とにかく私が進んで来た道で行きますと、愛光、東大法学部
というふうな話になると、だいたい官庁、お役所に行くか、大手商社に行くか、その
他の大企業に行くかっていう人が多いものですから、法律の世界に入る人は比較的少
ないっていうふうに思います。



司会者:わりと文系の方が、多い、半々、あるいは6:4ぐらいな、6で理、4で文とい
う世界の愛光学園だと思うのですが、そうした中では今日のパネリストをご覧になっ
ても理系の方、酒井さんは理系ってことですので、理系の方が多くて、文系で、目立
っている方が少ないというのが、一つの弱点ではないかなというふうに思うことがあ
るのです。そのあたり、在校生、大学で学んでいる方も少し意識していただいてもい
いのかなということでふらしていただいたのですが・・



鎌江さん:今の話に非常に係わるかもしれませんが、米国の大学・大学院には、(も
ちろん全ての大学院ではありませんが)弁護士のための医学講座といったようなもの
があります。そのための大学院もあります。例えば、弁護士資格をもつ人のための公
衆衛生学の修士課程があります。もちろん、これは医師の免許が取れるコースではあ
りません。場合によってはロースクール(法科大学院)を出てからメディカルスクー
ルに入るという人もいるし、米国では非常に多様な人材養成がなされています。そこ
では男女の差は全く関係ないと思えます。そういう意味では話は戻るようですが、私
個人の意見としては愛光学園が女性も取ると決定したということは全くの英断だと思
います。むしろ遅いくらいだと思っています。良い人材を送って欲しい大学人の立場
から言えば、男女の性は関係なく、要するに人間として豊かなものをもって、医師を
志し、医学部へきてくれる点が重要です。そういう意味では、早くから男女を特に区
別することなく教育してもらうほうが大いに良いと思います。愛光生には医学部志望
が多いと聞きますので、在校生や御父母にもお願いしたいのですが、受験すべき大学
を成績の順番で旧帝国大学から割り付けていくみたいな受験指導は是非止めて頂きた
いのです。なぜかと言いますと、先ほど述べましたように、学際的な能力を持つ医師
が輩出されなければ、いろんな意味で難しい状況に直面している日本の医療の改革が
進まないのです。高校出たてのまだ幼い学生が医学部に入ってくるのは、日本の場合
メディカルスクールではないので、むしろ早すぎるのではないかと思えます。つま
り、例えば愛光時代に成績が悪く、医学部に入るには十分でなかったとした場合、そ
れは幸いと思ってもらい、とにかく自分がやりたいことをまず何年間かやることが勧
められます。工学部でも何でもいいのですが、まずやりたいことをやっているうち
に、人間の命の問題に興味を持ち始めることができたとしたら、それから医学部を受
験しても遅くはないわけです。むしろ親も、子供が高三ぐらいで「医学部に行きた
い。」と言ったら「お前はまだ早い。」と抑えるくらいの見識があっても良いように
思えます。もちろん、無理にそうする必要はありません。しかし、あえて苦難の人生
を選ぶくらいの、何というか・・・先ほどの話にありました壇ふみのお父さんの「子
供が多難であれ。」という言葉に通ずるような考え方があってもいいのかなと思える
のです。男女平等の話題からはちょっとはずれたかもしれません。



田中さん:一言なのですが、ただ日本の社会で気を付けないといけないことは、女性
を受け入れる組織が完備してないのです。例えばニュージーランドの私が勤務してい
たカンタベリー大学ですと、保育所が中にあります。ですから女性の職員の方で、出
産されてもそれからその後の育児も職場の中でそれを受け入れる体制があるのです。
ところが日本の大学で、育児所のある大学というのは、おそらくないと思います。

吉田さん:ありますよ。九大医学部には育児施設があります。

田中さん:失礼しました。ただ大半はまだ完備されてないと思います。何を言いたい
かというと、男女平等という中には社会体制としてやはり女性をサポートするシステ
ムが完備していないと非常にマズイことがあると、先走りということがあります。そ
れからもう一つ伝えたいのは、やはり職場によっては、私は建設関係ですから、建設
関係になりますと、施設として女性のトイレとか・・建設現場はどんどん移って行く
ので、そういう完備するということがなかなかハンディーキャップとしてある場合が
あるのです。ですから、社会体制と社会意識ですね、それが整った時点でないと、な
かなか平等社会の中で女性が苦労されることがあるかと思います。



司会者:今、愛光という男子校で学んできたこのパネリストがそこまで女性の立場の
ことも色々考えなくてはいけない時代になってきている、実感しているということを
みなさんに一つ認識をしていただきたいと思います。それからもう一つ、ここに文部
科学省の方をOBで一人呼べば良かったなという反省を若干もっています。時間が押
しているのですが、この最後まで残っていただきましたオーディエンスのみなさんに
「あと、これだけは伝えておきたい」ということがありましたら一言お願いします。



酒井さん:私は共学化には基本的にあまり賛成ではありませんが、なってしまったの
だから、こうなっちまえば「悶々としろ」というのは無理なので、6年間の中でそれ
こそ妊娠・中絶なんてやっちゃって、トラブルを起こせばいいと思う。トラブルを起
こして、それを全部学校側が全部オープンにして、彼、生徒を交えて議論させて、そ
れが絶対に彼らの実生活・実体験の中でプラスになるはずなので、そういう情報公開
して、たぶん絶対にトラブルはある、レイプとかもあるかもしれない・・そういうこ
とを含めて全部前向きに共学化を進めていけばいいのかなと思います。

田中さん:全く賛成でありまして、先ほどの文系・理系の話、男子生徒・女子生徒の
話、これは混ぜて同じものにしていくのではないですね。文理融合ということをいい
ますが、それは文・理それぞれの持分をわきまえること、それから男子生徒女子生徒
も全くそうであります。そういうところを勘違いしないようにして、それぞれの持ち
味をだしていく、おそらくもう全くその通りであると思うのですが、ひょっとすると
混ざっちゃっていう感じになりがちではありますが、それは気をつければいいと思い
ます。あと、50年後はどうなるかという話がありましたが、これはもうおそらく世界
に向かってオープンにしていくということになるのでしょうね。今、女子生徒という
ことになりましたが、もう愛光生の中にはそういう国籍という壁が取り払われるので
はないかと思います。あと、在校生の方もいますので、とにかく目標は高く持って、
150%くらいの目標を持って目標を高く掲げてやりましょう。

二神さん:我らの信条というのは50年前の田中先生の僕はやはり大風呂敷、大風呂だ
ったと思うのです。我々はとても到達できないわけです。だけどそういうものがいる
のだろうと。この50周年の男女共学はやむをえないかなという感じですが、何かそこ
にももう一つ大風呂敷を広げた大理屈がほしかったなと。その辺が非常に現実主義に
だしすぎたというような感じがあり、べつに今年どうしても大風呂敷を広げないとい
けないというわけではないので、これから男女共同でやってみて、10年後にもう一度
我らの信条に負けないような大風呂敷みたいなのをぜひ打ち立ててほしいと期待しま
す。



司会者:4期生二神さんにまとめていただきましたが、まだまだ具体的に突っ込んだ
深い話、バトルを行っていきたいのですが・・・ここまでの話でも、いくつかみなさ
んのためにヒントになることがでてきたのではないかというふうに思います。この辺
でパネルディスカッションをまとめさせていただきたいと思います。パネリストのみ
なさんの益々のご活躍を期待しております。今日はありがとうございました。それで
はこのメインホールの締めといたしまして、愛光学園同窓会を代表して11期生末光清
貞さんから、次期同窓会長でありますが、ご挨拶を述べさせていただきます。



末光さん:本日はご多数のご出席有難うございました。本日、同窓会長になりまし
た、まだ湯気が出ております、11期の末光です。今日は第一部の特別講演では
「Boys,be ambitious.」ボーイズでまだ通るのかなという感じもしますが、これ
からの我らの人生に一つの示唆を与えてくれたと思います。そして第二部のパネルデ
ィスカッションでは愛光学園を再認識できたのではないかと思います。私は学校の評
価、母校の評価は大学に何人通ったか、東大に何人通ったかということよりも、我々
同窓生の評価が母校の評価であるというふうに思っています。そのためにはこれから
我々同窓生の生き様がそのまま母校の評価につながる、そういう気持ちで会長を務め
させていただきたいと思います。本日はお忙しいところご出席ありがとうございまし
た。これにてシンポジウムを終了させていただきます。



司会者:愛光学園同窓会主催50周年のシンポジウムを終了とさせていただきます。